本と映画とピクニック

  Pierre-Auguste Renoir, Picnic (Le déjeuner sur l’herbe), c.1893, Barnes Foundation.

 

 四月になるとすぐ、文庫になったばかりの、金井美恵子さんの猫エッセイ『迷い猫あずかってます』が届いた(解説 桜井美穂子、中公文庫、2023年)。

 目白のキジネコ「トラー」の日常観察。この猫の生態をめぐる描写には、本と映画のなかの猫と犬の記憶が重ね合わされていて、友人たちの猫ばなしが絡められている。猫と、猫と暮らす人びとにかんするフィールドワーク的記録に、いつもの辛めの文芸と思想の時評がさしはさまれていて、背筋をただして読むのがふさわしい。

まだ見ていない映画の(けっしてあらすじではなく、デティール)があれもこれもとふんだんに語られ、いまにも見たい気分になる。J. ルノワール監督の映画『ピクニック』。そういえばまだ見ていなかったということになって、映画が観たくなる。ピクニックに出かけたくなる(「ピクニックに行こうと思う」)。

 こういう好奇心の感覚をともなうのは、金井美恵子さんのほかのエッセイでも同じ。『ページをめくる指』(河出書房新社、初版2000年、平凡社、2012年)のなかで、A. キアロスタミ監督の「パンと裏通り」という犬が出てくる短編映画について幾度も読むうちにいつのまにか(想像上の)親しい映画になっていたり。そういう文章の魔術にかかってしまう。たのしさもにがみもうつってくる。ふと本棚の古層に手を伸ばすと、『愉しみはTVの彼方に』が、2冊の『岸辺のない海』のあいだにあった。

 ほんのすこしして、金井久美子さんの新作展の春の黄色のご案内ハガキが届いた(「金井久美子 新作展 たのしい暮らしの断片(かけら)2」、村越画廊、2023年4月12日〜4月22日)。

 金井美恵子・金井久美子『シロかクロか、どちらにしてもトラ柄ではない』(平凡社、2022年)の挿画の原画になったコラージュとアッサンブラージュが、「トラー」のデッサンに囲まれるように展示されている。

金井久美子《心地よい場所》(テンペラ、毛糸、ヒモ、玩具)より、部分

 あちこちに、ピンクや赤色のリボンや刺繍糸を丸めたものがあしらわれていて、素材集めが気になるだとか挿画との違いについて伺いながら、J.コーネルが素材を収めていたストレージのモノクロ写真を思い出したのは、鸚鵡へのオマージュのように、鳥のブリキのおもちゃが貼り付けられているから。こんなふうに、アンリ・ルソー風の「虎」の隣に。

 金井久美子《おそろいとおさがり》

  (色鉛筆、鉛筆、パステル、テンペラ、刺繍糸、フェルト、麻ヒモ)展覧会ポスターより、部分

  金魚すくいをする姉妹のおもざしが変わらないことに、微かなしるしに、心打たれていると、ふたりはおかあさんと映画館に入っていき、木のもとで仲良くスケッチし、本屋さんで真剣にたたずんでいた。

 書店の棚には、『若草物語』『クマのプー』『水の子』などなど。『わたしが子供』という背表紙も、新刊の小学生向け雑誌も、ところ狭しと。本に刷られた挿絵からはほとんど消えていた、鉛筆の細い線で刻まれた、手書き文字のあじわいは、まるで昭和の少女の絵日記。

 姉妹の日々はこのころからずっと、本を読み、たくさん映画を観て、ピクニックして、花・くだもの・駄菓子のようなあかるい原色で絵を描く。TVを見て、文章を書く。

 光をあびて、泡だち波うつ猫の毛をながめる。そういうよろこびに、ずっと満ちている。

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