菱形ののれん

Jhumpa Lahiri, Whereabouts, Penguin Random House India, 2021.

 ある休日の朝、読みはじめたとたんにおなかがすいてきたエッセイがあります。朝ぼらけから目がさえざえと覚め、なにとなしにブラウズしているうち行きあたった、The New Yorker誌の記事 Jhumpa Lahiri, ”The Long Way Home”

ジュンパ・ラヒリの文章は、インド出身の母の、秘伝のレシピをめぐる思い出と、アメリカで育った作家の料理をめぐる遍歴が、ごく率直な語り口で語られて、いっきに読ませます。

 アサフェティダ、ジンジャー、ガーリック、ターメリック… 休みの日のキッチンに満ちるスパイスの香りがただちに届くエッセイに誘われて、明け方に本を探し、エッセイIn Other Words を読んでみることに。

 これはラヒリが最初にイタリア語で書きおろし、英語に翻訳された本。Kindleにダウンロードしてみると、英語とイタリア語の両方で構成されています。見開きページに対語で並んでいるのでなく、ページ毎にひとつ、白い長方形の上に菱形の模様がプリントされたような、ちいさなアイコンがあって、それは別のことばの方へ移るためのリンク。

 たとえばここは、フィレンツェへの旅についての一節( 最後の、Permesso? May I?のあとに、アイコンがあります。)

 この暖簾(のれん)のようなアイコンをタップすると、英語とイタリア語のあいだを瞬時に行き来できる。二重の菱形模様は、インドのブロック・プリントの定番柄であることも手伝って、E-Bookに布の質感が加わる。

 とつとつと語る彼女のことばは、ひとつの異国の言語を学び、それがどのように彼女の心の居場所をなしていったかを直に伝えてくれます。学びはじめたときには、とりたてて必要もなかったはずのイタリア語に、ほとんど取り憑かれていく道行きには、静かに熱狂めいたところさえ。

 次に手にとったのはWhereaboutsDove mi trovoというタイトルで、やはりラヒリがイタリア語で書きおろした小説はローマが舞台。短いセンテンスで素朴に綴られる文体はあいかわらず、簡素な文体の質感をとおして永遠の都の石は変質する。およそ固有名詞が登場しないこの小説にはふしぎと抽象的なところがある。そのぶん、家具や文房具などのイメージが、モノクローム的空間を背景に、まるで拡大されて映しだされる。

 ちなみに、インド・ペンギン・ブックス版の表紙でも、日本語の翻訳書ジュンパ・ラヒリ『わたしのいるところ』中島浩郎訳(新潮社の表紙でも、椅子が被写体になっている。

 In Other Wordsを読む読者は、作家が、イタリアをめぐるある種のエキゾティシズムから出発し、ついでローマに移り住み、アメリカと行き来するなかで言語の壁がやがて扉として開いてゆき、しまいにはイタリア語こそ彼女の家となってゆく過程に触れることになる。もちろん、アメリカの中のカルカッタという、彼女のもうひとつの家にも。

あとがきで語られる、アンリ・マティスのカット・アウトを見ての発見に至るまで、徹底してそれは、三つの言語をめぐる自伝なのです。

 Whereaboutsが描く、ローマという土地は、どこでもない場所として立ちのぼります。どこにも留まらない書き手が通りすぎる、第三の地点。とはいっても、かなり抽象化されたその空間のなかにも、キッチンに行ってみると、いつでもおいしそうなレシピがある気配。

もうひとつのことば、場所、それとも土地との絆のように、タイムとレモンの香りが漂ってくる。もうしばらく彼女のほかの本も読み続けてみたくなる。

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